JICA関西センター物語(13) -さらなるパートナーシップ発展のために- 「大阪国際センター移転の時代背景」

2023年12月28日

前回に引き続き今回も大阪国際センターについてお届けします。

拡大する事業に応えるために

1967年4月に大阪府茨木市南春日丘に開設されたOTCA1大阪国際研修センター(当時。以下、「旧大阪センター」)は、27年後の1994年4月、同じ茨木市の西豊川町にJICA大阪国際センターとして移転されました。施設、設備が古くなったこともありますが、それ以上に事業が拡大し手狭になったことが大きな理由です。
旧大阪センター開設翌年の1968年度、同センターでは82名の研修員2を受入れていましたが、西豊川町に移転した1994年度には828名3となっています。四半世紀の間に10倍となりました。
移転に伴い、施設や設備は格段に拡充されました。研修員のための宿泊施設として、ベッド数は旧大阪センターの70から300となり、研修員の大幅な増加にも対応できるようになりました。共同使用だったシャワーとトイレも各部屋に備えられ、部屋の広さも2倍になりました。また数室しかなかった研修のための講義室も20以上確保された他、国際会議室や体育館、さらに一般市民のための広報展示室や図書資料室も新設されました。センター全体の敷地面積は旧大阪センターの約3倍の11,739㎡(甲子園球場のグラウンド部分の約9割)に、延べ床面積に至っては約7倍の16,804㎡となりました。


1 特殊法人 海外技術協力事業団:「Overseas Technical Cooperation Agency」の略。1962年6月創設。1974年8月に海外移住事業団と統合して国際協力事業団(現独立行政法人 国際協力機構)設立。
2 開発途上国から日本に来てJICAの研修事業に参加する方を指す。研修期間は数週間から日本の大学院での学位取得を目指す最長3年まで多様。参加者の大宗は各国政府の行政官で、研修事業を通じて知見・技術を共有し、自国の発展のために生かす上で核となる人材である。中には、研修参加後、数年で自国政府の局長、次官、さらに閣僚にまでなった実績もある。他にも開発途上国のビジネス界や学術界などからも参加している。
3 前年度から当年度にまたがって滞在していた研修員を含む。

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(写真:竣工直後の大阪国際センター。設計・施工監理は株式会社日建設計。躯体建設は清水建設株式会社、電気設備は住友電設、機械設備は高砂熱学工業と朝日工業の共同企業体が担当。)

大阪国際センターに込められた思い

開所式典は1994年10月13日に大阪国際センター体育館にて執り行われました。
来賓として、地元を代表して中川和雄大阪府知事、山本末男茨木市長が、また経済界を代表して川上哲郎関西経済連合会(関経連)会長が出席し、祝辞を述べられました。また元衆議院議長であり、「JICAを育てる会4」の会長も務めていらした櫻内義雄議員からもお言葉を頂いております。ご来賓の顔ぶれがこのセンターに対する期待の高さを表しています。

1994年は関西国際空港が開港した年でした。開港によって大阪にもたらされる大きな発展への期待と、新センターに対する期待の言葉を多くの来賓者からいただきました。
中川知事のスピーチです。
「去る9月4日には待望の関西国際空港が開港し、大阪は世界の多くの国・地域と直接結ばれ、内外に開かれた世界都市として大きな注目と関心を集めております。このような中、大阪北部に位置する貴センターの他に、大阪市内には財団法人海外技術者研修協会5新関西研修センターが本年6月にオープンし(中略)、国際的な人材育成機能の強化と国際貢献という視点からも喜ぶべきことでございます」。

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(写真:1994年10月13日 大阪国際センター玄関ロビーで行われた開所テープカットの様子。左から、山本末男茨木市長、櫻内義雄前衆議院議長・JICAを育てる会会長、藤田公郎国際協力事業団(国際協力機構の前身)総裁、中川和雄大阪府知事、川上哲郎関経連会長。)

また、1980年代後半から始まった日本の好景気、いわゆるバブル景気はこの時期すでに終わりを迎えていたとはいえ、当時の日本は世界全体のGDPの17.6%6を占める経済大国でした。JICAや政府関係者以外の多くの方々が、「国際協力は日本の果たすべき役割」とおっしゃっていたのも印象的です7。中川和雄大阪府知事は、「国際化の時代を迎え、我が国が国際社会の中で果たすべき役割の一つである開発途上国への協力は、今後ますます重要になるものと考えられます」と、また山本末男茨木市長も、「様々な課題が山積する中で我が国には従来にも増して国力にふさわしい責任を果たすことが強く求められております」とおっしゃっております。さらに川上哲郎関経連会長は次のようにお話しされました。

「(大阪国際センターに対しては)日本に課せられました技術移転、特に発展途上国に対します技術指導の問題等につきまして、あるいは人材育成、人材交流の拠点として十二分にその役割を果たされますことを私共も希望いたしますし、またそれに私共全力を挙げて協力していかなければならない。これが私共に課せられた国際協力の課題であろうかと思うわけであります」。

多くの期待を背負って船出した大阪国際センター。しかし28年後の2012年、時代の流れの中でその役目を兵庫国際センター、現在の関西センターに引き渡すことになります。なぜ兵庫が残り、大阪を閉鎖することになったのか。次回は二つのセンターの統合について取り上げます。


4 スピーチに立たれた櫻井議員ご本人のご説明によれば、同会は国会においてJICAが大いに伸びるようにしたいという思いで設立されたとのこと。同議員は会長を歴任されている。
5 現一般財団法人海外産業人材育成協会(AOTS)。
6 1995年。内閣府HPより。
7 1992年6月、政府は「政府開発援助大綱」を閣議決定。その基本理念として、「世界の大多数を占める開発途上国においては、今なお多数の人々が飢餓と貧困に苦しんでおり、国際社会は、人道的見地からこれを看過することはできない」としていた。

JICA関西 地域連携アドバイザー
徳橋和彦